Masuk「聞いていたのか」 出産後の病室で、朔弥さんは私の隣へ椅子を寄せた。 「途中から」 彼の手を握ったまま、父への謝罪について尋ねる。 「どうして、私には言わなかったんですか」 「君に話せば、自分のせいで父親へ心配をかけたと思うだろう」 否定できなかった。 「俺がしたことを、俺から謝りたかった」 見せるためではなく、許してもらったと報告するためでもない。 私の知らないところでも、彼は自分のしたことから逃げなかった。 「ありがとう」 手を引くと、朔弥さんが身を屈めた。 短く唇を重ねる。 隣の小さな寝台で、結菜が声を上げた。 「起こしましたね」 「君が引いた」 「お父さんでしょう」 二人で笑い、娘のそばへ立った。 *** それから一年ほどが過ぎた、結菜の誕生日。 私たちは新居の居間で、家族が来るのを待っていた。 一条家が御門の経営へ口を出すことはなくなった。 澄麗がしたことについては、ホテルでの発言とそれまでの記録を含め、責任を問う手続が進んだ。 澄麗はあの夜のあとも、朔弥さんとの婚約は続いている、披露の場をやり直せばすべて元へ戻ると言い張った。 心身の状態を崩し、雅臣の判断で医療機関へ入院させられた。今も退院の見通しは立っていない。 冴子の命令も、会社や新居へ届かない。 私は仕事へ戻った。 私が遅くなる日は、朔弥さんが結菜を迎え、夕食を用意する。 彼が会議で戻れない日は、私が先に帰る。 「ただいま」 玄関を開けると、娘の声が返ってくる日が増えた。 居間には父と、香澄さん、久我さんが来ている。 城戸さんからは、小さな花束が届いた。添えられた写真には、仕事の打ち合わせをする榊原さんも写っている。 「まだ、一人で歩かないのか」 父が床に座り、結菜へ手を伸ばした。 「つかまり立ちはするんだけどね」 「急がせるな」 朔弥さんが、父より先に止める。 「お父さんが二人いるみたいですね」 香澄さんが笑った。 その手が、自分のお腹へ添えられている。 「もしかして」 私が聞くと、久我さんと顔を見合わせた。 「ええ。私たちのところにも、来てくれたみたい」 「香澄さん……」 名前を呼んだきり、それ以上の言葉が出なかった。 この子はきっと、失った子
午後の病室で、父が窓際を指した。 「朔弥君が抱いてるよ」 顔を向けると、窓際の椅子に朔弥さんが座っていた。結菜は、その腕の中で眠っている。 小さな顔を見つけて、私は肩の力を抜いた。 父が笑う。 「お前が寝ている間も、ずっとああしてる」 朔弥さんが顔を上げた。私と目が合うと、娘を抱いたまま椅子から立ち上がる。 ベッドのそばまで来てくれたので、私は手を伸ばし、結菜の頬へ触れた。 さっきと同じ、温かさだった。 父の顔を見ると、私は布団の上へ出していた手を伸ばした。 父は近づいてきて、いつもの大きな手で私の頭を撫でた。 「よく頑張ったな」 子どもの頃と同じ撫で方だった。私は頷き、父の手が離れるまで、目を閉じていた。 それから父は手を洗い、娘を抱くために椅子へ座った。 「抱いてあげて」 「どう受け取ればいい」 朔弥さんが横から支え、父の腕へ結菜を渡す。 父は腕の位置を何度も確かめ、ようやく娘の顔を覗き込んだ。 いつも大きく見えた父の手の中に、娘の頭が収まっている。 「小さいな」 「私も、こんなだった?」 「お前は、もう少し大きな声で泣いた」 父は笑い、しばらく結菜を見ていた。 朔弥さんへ娘を返してから、持ってきた鞄を膝へ載せる。 中から取り出した小さな包みを開くと、古い靴が一足あった。 「それ、何?」 「お前が初めて外を歩いた時の靴だ」 手のひらに載るほど小さい。つま先が擦れて、片方の底だけ、少し減っている。 父に渡されても、私はすぐに両手を下ろせなかった。 「ずっと取ってあったの?」 「捨てる理由がなかったからな」 父は結菜を見てから、私を見た。 「お前が何かできるようになる前から、見ているだけで面白かったよ」 私は父の顔と、朔弥さんに抱かれた娘を交互に見た。 結菜は眠っているだけなのに、いつまでも見ていたい。さっきから父も、朔弥さんも、同じように娘を眺めている。 私も、こんなふうに見てもらっていたのだろうか。 何かができるようになるたび、次も頑張ろうと思っていた。けれど、何かができたから愛されたのではない。 歩けるようになる前から、父は私を見て、面白がり、笑ってくれていた。 私は、ずっと愛されていた。 手の中の小さな靴を見ていると、泣きたい
出産が近づいた分娩室で、朔弥さんが私の手を握り返した。 会いたい。 お腹を蹴るたびに呼んできた名前を、今度は顔を見て呼びたい。 女医の声に合わせ、次の痛みに力を込める。 やがて、小さな泣き声が聞こえた。 私は顔を上げた。 今の声。結菜だろうか。 女医が私へ笑いかける。 「女の子です。元気ですよ」 身体から力が抜けた。 返事をしようとしたのに、うまく声にならない。もう一度泣き声が聞こえて、私は頷きながら泣いていた。 胸元へ連れてきてもらった娘は、赤い顔で泣いている。 こんなに小さかったのか。指も、爪も、耳も、ちゃんとある。何度も超音波写真を見たのに、顔を見た途端、写真のことは全部忘れてしまった。 「……結菜」 呼ぶと、泣き声が少し弱くなった。 私は娘の頬へそっと指を当てた。温かい。口を動かし、また小さく泣く。 会えた。 ずっと私のお腹にいた子に、やっと触れられた。 もっと何か言ってあげたいのに、名前しか出てこなかった。 結菜、ともう一度呼んで、私は隣へ顔を向けた。 朔弥さんが顔を覆っている。 肩が小さく動いた。指の間から見える目元が濡れていて、私はしばらく、その顔から目を離せなかった。 あんなに慌てて、私の名前を呼び続けて、ようやくここまで来たのだ。この人も。 「……泣いているんですか」 聞くと、朔弥さんは手を下ろした。目元を拭ったのに、また涙が落ちる。 「悪いか」 言い方だけは、いつもの彼だった。 それがたまらなく愛しくて、笑おうとした私の頬にも、また涙が流れた。 「いいえ」 泣いてくれて嬉しいなんて言ったら、困らせるだろうか。 でも、嬉しかった。この人が娘に会えて、こんなふうに泣いているところを、一番近くで見られることが。 片手を伸ばすと、その手を両手で握られた。 朔弥さんは身を屈め、私の手に額を押し当てた。痛みの最中にはあれほど頼もしかった人が、今は私の手を握りしめて泣いている。 私は親指で、彼の濡れた頬を撫でた。 「ありがとう、真尋」 顔を上げた彼と、一緒に娘を見た。 「会えましたね」 「ああ。会いたかった」 朔弥さんが空いている手を伸ばす。娘の頬に触れる直前でためらうので、私はその指を結菜の手元へ導いた。 小さな指が
出産予定日まであと数日の明け方、新居の寝室で陣痛を告げると、朔弥さんは跳ね起き、枕元の端末と時計を同時に見た。 「間隔は」 「まだ長いです」 「病院へ連絡する」 準備していた鞄を取りに行き、違う鞄を持って戻ってくる。 「それ、あなたの仕事用です」 朔弥さんは鞄を見た。それから私を見て、もう一度、鞄を見た。 普段なら、私が指摘するより先に気づくだろう。仕事で何が起きても、私が慌てていても、いつも私より冷静な人なのに。 朔弥さんは無言で引き返した。 その背中を見ていたら、こんな時なのに、可愛いと思ってしまった。 あの朔弥さんが、私のことで、持ってきた鞄もわからなくなるほど慌てている。 安心させてあげたい。それなのに、嬉しいと思ってしまう自分もいた。 口元が緩んだところで、また下腹が痛んだ。私は腹部を押さえ、膝の上へ顔を伏せた。 戻ってきた朔弥さんが鞄を下ろし、すぐに背を支える。 「真尋」 「大丈夫です。まだ……話せます」 話せると言ったあと、言葉が続かなかった。吐く息に呻き声が混じりそうで、唇を結ぶ。 朔弥さんの腕を掴んだまま、私は目を閉じた。痛みが引くまで、腰に添えられた手を頼りに息を吐く。 ようやく顔を上げると、彼は私の顔を覗き込んでいた。さっきより眉間の皺が深い。 可愛いと思ったことは、今は黙っておこう。 落ち着いてから話したら、きっと困った顔をする。結菜が大きくなったら、この朝のことを教えてあげたい。 朔弥さんが私の肩へ手を回した。 「もう出よう」 私はその腕を握り直した。 「……病院へ電話してからです」 あれだけ準備していた人へ、私が順番を教えている。頷いて端末を取る横顔が愛しくて、痛みの合間に、もう一度笑ってしまった。 連絡を終え、上着を羽織ったところで、足元へ温かいものが流れた。 私が動きを止めると、朔弥さんの顔色が変わった。 鞄を持った朔弥さんを呼び止める。 「破水しました」 「すぐに病院へ行く」 朔弥さんが私を支えた。 今度こそ正しい鞄を持ち、車まで付き添ってくれる。運転手へ病院の名を告げると、私と一緒に後部座席へ乗り込んだ。 車が走り出してからも、何度も私の名前を呼ぶ。 「真尋」 「……聞こえています」 返事をすると、朔弥さんが
「聞こえましたか」 結婚式からしばらく後の午後、健診で訪れたいつものクリニックで私が尋ねると、朔弥さんは超音波写真から顔を上げた。 「女の子」 「はい。私たちの娘です」 彼はまた写真を見た。 口元がわずかに緩んでいる。こんな顔をする人だったのだと、今さら知った。 「君に似るだろうか」 「あなたに似るかもしれませんよ」 「君に似たら、心配だ」 「何がですか」 朔弥さんは、写真を傷つけないようケースへ入れた。 「俺みたいなのが、放っておかない」 「あなたみたいな人が来たら、私がよく見ておきます」 「君は、俺を選んだだろう」 「では、お父さんにも見てもらいましょう」 彼は反論しかけ、やめた。 女医が笑いを堪えているので、私は先に席を立った。 健診室を出ても、朔弥さんは写真の入ったケースを手放さなかった。 「そんなに見ても、急には大きくなりませんよ」 「わかっている」 そう答えながら、またケースを開く。 「あの日、無事だと聞いた時も、すぐには信じられなかった」 階段から落ちかけ、病院へ運ばれた日のことだ。 私も同じだった。画面に小さな心臓の動きを見つけるまで、自分の身体を信じられなかった。 「今は、ここまで大きくなりました」 彼の手を取り、お腹へ当てた。 「あなたが守ってくれた子です」 「君が守ったんだ」 朔弥さんは私のお腹を撫で、私の額へ唇をつけた。 「二人とも、無事に家へ連れて帰る」 この人はきっと、産声を聞くまで安心しない。 それでも、一人で不安を抱えていた頃とは違う。私も、この人の手を離すつもりはなかった。 帰り道、二人で名前を考えた。 「結菜、というのはどうですか」 「ゆいな?」 「結ぶという字に、菜の花の菜。この子が、自分で選んだ人たちと縁を結んでいけるように」 朔弥さんは、すぐには答えなかった。 私のお腹へ手を添え、呼んでみる。 「結菜」 内側から、小さく蹴られた。 「返事をしました」 「決まりだな」 「一度呼んだだけですよ」 「本人が決めた」 真顔で言い切るので、笑ってしまった。 「いい名前だ。俺たちが何度離れかけても、この子がつないでくれた」 その言葉を聞いた途端、目の前が滲んだ。 まだ名前も知らなかった頃から、この子は
「母さんに、そっくりだ」 結婚式当日、御門ホテルの支度室で、父は入口に立ったまま私を見ていた。 「前の式の時も、そう言ったよ」 「あの時は、花嫁衣装が似ていると思った」 父の目が、ドレス越しに丸くなったお腹へ向いた。 「今日は、お前がお腹にいた頃の母さんに似てる。彼女が、こうしてお腹へ手を当てて笑っている写真がある」 言われて初めて、自分がお腹へ手を添えていたことに気づいた。 「そんな写真、あったんだ」 「ある。お前にも見せたと思っていた」 「見てないよ」 「そうだったか」 「帰ったら、ちゃんと見せてね」 「ああ」 父は照れたように頭をかいた。 母も私がお腹にいた時、まだ見ぬ我が子に早く会いたいと思っていたのだろう。今の私と同じように。 母がここにいないことは寂しい。それでも、母も同じ気持ちで私を待っていたと知れたことが、嬉しかった。 父は目元を押さえた。 「母さんにも、今日のお前を見せたかったな」 「私も」 父は磨いた靴へ目を落とし、もう一度、私を見た。 「今度も、俺が隣を歩いていいのか」 「そのために来てもらったんだよ」 私は父へ手を差し出した。 父は、ようやく私の手を取った。 「転ばないようにな」 「お父さんが?」 「お前がだ」 顔を見合わせ、二人で笑った。 父とこの道を歩くのは、二度目だ。 けれど、一度目と同じではない。今度は私が選んだ人のもとへ、お腹の子と一緒に歩いていく。 父にもう一度隣を歩いてもらえることが、嬉しかった。 係員に呼ばれ、二人で扉の前へ向かう。 音楽が聞こえた。 扉が開くと、道の先に朔弥さんがいる。 仕事の資料も、会社の人も見ていなかった。 私だけを見て、待っている。 父の歩幅は、私に合わせてゆっくりだった。 祭壇の前まで来ると、朔弥さんが頭を下げた。 父は、私の手をすぐには渡さなかった。 「前にも言ったが」 「はい」 「大事にしてくれ」 「約束します」 朔弥さんが、父の目を見てはっきりと言った。 今度は、父も手を離した。 朔弥さんの手が、私の手を包む。 「前より、きれいだ」 「いま言うんですか」 「一度目の式では、言えなかった」 朔弥さんの親指が、二本の指輪をなぞった。 「俺の子を抱い
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は